狼煙・禄剛崎から見える珠洲の海。寄せては返す波音が、胸の中を空っぽにして、また満たしていく。震災後の2年で、珠洲は人口の18%が減少。5~6人に1人がいなくなってしまった。
日本海に突き出た能登半島のさいはて。あの地震で大きく大きく揺れた小さな町、珠洲。12000人以上いた暮らす人は10000人と少しに減ってしまったけれど、あちらこちらで道路はまだ修復中だけれど、それでも暮らしを立て直しながら、住む人の日々は続いている。なくなってしまったものと、なくならないもの。新たな息づきと、ずっとそこにあったもの。それぞれに、ここにしかない何かに惹かれながら暮らしをかたちづくる、彼らの日々。
あの地震を思い出すことはあるだろうか?新年のお祝い気分のただ中、能登を激しく揺らした大震災。海岸沿いの海底は大きく隆起し、面積を比べれば小さかったはずの石川県は、隣県の福井県よりも大きくなってしまった。それほど激しく大地を揺らした地震から2年が経ち、当初は連日続いた被災地の報道も、3度目の春が巡り来るこの頃では、めっきりとその数も少なくなった。ブレスではこの2年、チャリティーイベント「NOTOとHIDA」を開いて小さな支援を届けてきたけれど、毎年そのつながりの中にいてくれたのが、いつも珠洲から出店してくれるスパイスカレーの店〈いかなてて〉を営む糸矢夫妻だった。「いまはたくさんのメディアが取材に来てくれているけれど、きっといまだけで少なくなる。復旧には時間がかかります、どうぞ息長い支援をお願いします」。1年目のイベントの別れ際に聞いた言葉は、ずっとずっと胸にあった。2年が経ったいまだからこそ、改めて彼らの珠洲での暮らしを伝えようと思った。あれからどんなことがありましたか?いま、どんな暮らしをしていますか?
【スズレコードセンター】記憶をレコーズする場所。
「僕ら、その日はちょうど飯田町で出店してるんですよ」。珠洲の市街地にあるその場所には、ちょうど1年ほど前の5月にオープンした〈スズレコードセンター〉があった。6時に高山を出て「のと里山街道」を走り、11時過ぎに着くと糸矢夫妻はまだ来ておらず、店番をしていたスタッフの〝のりちゃん〟が「スズレコ」ができた経緯をかいつまんで説明してくれる。「ここは珠洲や奥能登のこれからを考えるための〝記録〟のセンターなんです。持ち込まれた写真や映像を預かって、未来に残せるように保管したり共有したりしながら、珠洲のまちづくりの活動ができる拠点を、と作られた場所なんです」。
金沢で生まれ横浜で暮らしていた彼女は、震災後のボランティアに入るうちに珠洲に惹かれ、この拠点作りが始まった1年ほど前に移住。いまはこの場所で働いているのだという。「この建物は鉄骨だったため一部損壊の形で残っていて。そこを舞台やイベントなどの空間の設計施行を行う建築集団〈々(ノマ)〉が中心となって、みんなでリノベーションして作り上げました」。彼女が「わたしの推しポイント」と教えてくれた壁には、珠洲で取れる珪藻土が使われており、そこには「スズレコ企画プロジェクト」で作られた飯田高校ビジネスコースの生徒が制作した、珠洲のお店のポスターが貼られていた。高校生たちが自分たちの暮らす地域への親しみを再認識出来るようなこの取り組みを興味深く眺めていると、表のガラス戸をヨイショと開き、出店の道具を持った糸矢さんが入ってきた。
「お久しぶりです、もう着かれていたんですね」。 妻の千翔さんの後ろからは、彼らの一人娘のみちるちゃんがこの場所にも人にもすっかり慣れた感じでついてくる。手早くカウンターを片付けて支度が始まると、店内にはたちまち美味しそうなカレーの香りが漂ってきた。高山でのイベントの時はバタバタして食べられなかったカレーをさっそく注文。想像の遥かに上をいく次元の美味しさに目を見開いていると、「実はここのカレーはわたしの移住の理由の1つなんです」埼玉から移り住んできたもう1人のスタッフの〝ももちゃん〟がなんだか誇らしげに教えてくれる。この旨すぎるカレーをたちまち食べ終わる頃には、店内はどこからこんなにと驚くほどのお客さんでもういっぱいに溢れていた。
「ちょうど2階で展示をやっているので、ぜひ見て行ってください」と教えてもらい上がったフロアでは、さまざまな記録資料を紹介する「レコードフェア2026」が展示されていた。カレー出店で賑やかな1階とは違った静かな空間を満たしていたのは、解体作業の現場や、道路や景色の定点観測、スズレコの常連さんが周辺の日常を写したスナップショットに、大規模崩壊した見附島の変化する姿を見守るアーカイブ、それから震災前から収集してきたさまざまな能登の音などなど。そんな震災の記録と共に、地域から掘り起こされた古いアルバムなどの「かつて」の暮らしの記録が展示されていた。それらは見る人に、これまでにもずっと、ここを我が町と日々を紡いできた人々の営みがあったことを思い起こさせ、そこに映るシーンの一つひとつが胸に染み入る。20代と思しき男の子が1人、丹念に展示に見入っている。その姿に、復旧から復興へと差し掛かかるいま、発信する人とそれを受け取る人が交差する場所がある、珠洲に息づくカルチャーの豊かさを感じていた。
展示室を後に階段を降りると、表では糸矢さんが慌てて看板を畳みながら、「こんなに早く売り切れるなんて」と驚いている。1月から毎週木曜日に出店に来ていたという彼らのカレーの美味しさは、春の訪れと共に周知が広がったみたいだ。美味しいものはどこであれ、やっぱり人を呼ぶのだと確信する。このあとの〈いかなてて〉での再会を約束して、今夜の宿になるゲストハウス〈仮( )(かりかっこ)〉へと向かった。
【仮( )とガクソー】彼らが( )で括るもの。
同じ道を3周して、やっと辿り着いた〈仮( )〉は、珠洲を拠点に活動するコレクティブが営むゲストハウスだ。そこでは中心メンバーの1人の楓さんが、チェックインを待ってくれていた。おそらく昭和の時代に建てられた住宅を宿仕様に改修した館内をひと通り案内してもらうと、一階の床だけが新しいことに気づく。「この辺りにも津波が来たんですよ。市内で最大4~5mだったかな。だから床は張り替えたんです」。最後に辿り着いた共有の居間のようなスペースに腰を下ろして、「いつからこの町に?」と聞いてみたら、過去に開催された「奥能登国際芸術祭」の初回の2017年だというから、彼はすでに9年この町に暮らしていることになる。
「出身は岐阜県なのですが、進学で金沢の美大へ来て。なんかだんだん北上してきたんですよね」。 〝たまたま〟訪れるようになった珠洲に移り住んだのは、陸地の行き着く先である半島ならではの地形で醸造された独特の文化に惹かれたからだった。場所や状況をコンセプトに持ちながらアートワークをしていくアーティストユニットとして活動する彼は、この場所で「人と人の関係性を媒介する場を作ろう」と、仲間が集う飲食店(こちらは震災で閉店中)やゲストハウスを立ち上げ、また小学校の非常勤講師として働きながら、地域の中で子供たちの学びに伴走するような教育活動にも携わっているという。
「珠洲にとって何が一番優先度が高いんだろう?って考えた時に、やっぱり教育だろうって思ったんですよね。だけどそれには子供だけじゃなくて、地域の人たちが多様に関われる場所が必要じゃないかなと。だったらみんなが自由に学べる場所を作ろうって」。移住して知り合ったメンバーが中心となり、珠洲の大町通り商店街にある〈中田額縁店〉跡を使って活動が始まった〈中田文化額装店〉(通称ガクソー)は、子供たちの居場所づくりのための活動を支援する「ユースセンター起業塾」の一期生として採択され、22年にはNPO法人として事業化された。「実はその新しい施設がほぼ出来上がったところで、4月12日が竣工式なのですが見ていきますか?ガクソーの代表の北澤がいれば彼からも話が聞けると思うので連絡してみますね」。
連れて行ってもらった場所には、塗装を終え、ビニールも外されるばかりの施設が完成を間近に控えていた。さまざまなデザイナーやアーティストがメンバーとして関わるこの場所には、子供たちの学びの場のみならず、コワーキングスペースやスタジオなどの多様な機能が詰め込まれている。「かっちりし過ぎずに、いつでも自分の言葉で喋れる場所にしていきたい。僕はその対面ではなくて隣に立っていたい、そんな感じですかね」。そういうと彼は、開所間近の施設に静かにじっとそのまなざしを注いでいた。家でも学校でも仕事場でもないけれど、それでも居場所になりうるサードプレイス。都会でもローカルでも、人にとって自由に息ができる場所が必要なのは変わらない。彼らが仮で( )で括ったものは、ここに通う人の人生をきっと耕してゆくのだろう。
震災で自宅が倒壊した楓さんは、現在新しい自宅をセリフリノベ中。自身の暮らしも立て直しながら、こうして「誰かのため」の居場所作りに奔走している。震災後この地を離れる若者も少なくない中、離れるという選択肢はよぎらなかったのだろうか?「妻ともいろいろ考えたんですが、それはなかったんですよね。すでに関わっている学生のことももちろんあるけれど、うん、やり残したことじゃないですけど、この町を出るならもっと美しい形で出たいって思ったんですよ。こんな地震のせいで出ていくっていう、そんな覚悟で珠洲に来ているわけじゃない、って」。
「美しい形」を模索させ、彼をこの地に引き止めたものの正体はなんだろう?いずれにせよ、離れられない場所になるには理由がある。元は縁もゆかりもなかった珠洲という場所は、いまや彼の〝居場所〟でもあり、彼を受け止めるこの土地に根ざした思いこそが、その多岐に渡る活動を支えている。
【いかなてて】最果てのカフェから始まる、能登を新たな「目的地」にする〝祭り〟。
「北澤は明日の午前中なら〈あみだ湯〉にいるみたいで、会いに行かれますか?」〈あみだ湯〉は、彼らが先代から引き継いだ地域の中にある銭湯の名前だ。アポなしなのに、なんとなく気になっていた場所がどんどんつながっていくのが不思議だった。もちろんお願いしますと訪問を約束して〈いかなてて〉のある狼煙(のろし)町に向かう頃には、もう15時30分を回っていた。飯田町から30分ほど北上しながら車を走らせると、海沿いの道にはいまも壊滅的に大きく壊れた岩肌が目立つ。その先にはもう日本海しかない半島の本当の最端に佇む〈いかなてて〉に着くと、なんだか時間もゆっくりと流れ出すみたいだ。ゴキゲンな音楽が漏れ聞こえる扉を開くと、仕込み作業をしていた糸矢さんが手を止めて出迎えてくれた。
狼煙で生まれ育った糸矢さんは、関東の大学への進学をきっかけに16年ほどを東京で過ごしており、当時は高円寺でレコード屋を営んでいた。「いつか帰ろう」と思っていた帰郷を決めたのは、北陸新幹線が開通したり、「奥能登国際芸術祭」の開催も決まった2016年の頃だったという。「70年代のディスカバリー・ジャパンの頃は、禄剛崎灯台を目当てにこの辺りにもたくさんの観光客が押し寄せた時代があって、ここはその当時に祖母がドライブインをやっていた場所なんです。ブームの後は店も辞めて物置みたいになっていたところをリノベーションしてこの店を始めました」。独学で作り始めたスパイスカレーと近くで焙煎している〈二三味(にざみ)珈琲〉のコーヒー、そこにレコード販売をコンポジットしたこの店で、妻となる千翔さんと出会い結婚し、みちるちゃんも生まれた。「もともと地震が多いところだったから」と、最初のリノベの時に基礎をジャッキアップして筋交もしっかり入れ、「耐震には対応していたつもりだった」が、2023年5月に起きた震度6強の地震で瓦がすべて割れる大きな被害を受けた。「お店のことだけ言えばあの時の方が被害は大きかったんですが、全体の被害はやはり2年前の地震が甚大でした。あの日、僕ら家族は妻の実家の東京にいて初詣に出掛けていたんです」。東京でも揺れを感じて、嫌な予感がしてテレビをつけたら珠洲の被害状況に血の気が引いた。津波は店のすぐそこの道まで来ていた。「その時に、元東京消防庁の義父が『僕もついて行く』と言って同行してくれたのが心強かったですね。車に物資を詰め込んで2日の朝に出たのですが、道が寸断されていて着いたのは4日の朝。自宅はもうぐちゃぐちゃでみんな避難所にいたのですが、正月だったこともあり家に食べるものが多くあったことは幸いでした」。ライフラインはすべて止まってしまったが、そんな時に救ってくれたのが狼煙の自然だった。「裏山から出る湧き水をうまいこと使えば風呂に入れるって気づいたんです。うちの風呂は薪で沸かすので電気もいらない。介助が必要なお年寄りの入浴を、僕より若い子が進んで手伝ってくれました」。
その後、糸矢さん夫妻は金沢のみなし仮設住宅へ入り、狼煙に仮設住宅が出来た10月にこの場所へ帰ってきたが、震災の前と後で変わったことはやはり大きかった。「地元の僕らもどこを走っているかわからないほど景観が変わってしまって。普段何気なく目印にしていた建物も倒壊して更地になって…、ここに何があったのか思い出せなくなっていくのがやっぱり寂しいですね。それに、もともとだんだんと人が減っている所ではあったんですが、20年後がいま来た、という感じはしています」。自分たちの暮らしは少しずつ元に戻っても、周辺の飲食店はどんどん店をたたみ、暮らす人は減り、「この先が見えない」という危機感は強い。だがその反面、変わり始めた潮目を感じることもあり、それがローカルなこの地域にあるカルチャーの息づきだった。
「〈奥能登国際芸術祭〉があったことも大きいのかもしれませんが、僕が戻ってきた頃と比べると絵やレコードを買いにくる人が増えているし、ここ10年ぐらいで確実に変わってきています。実は震災後も、珠洲には多くのアーティストが支援のためのライブや寄付をしてくれたんです」。せっかくつながった彼らの思いを、このままでは終わらせたくないと考えた糸矢さんは、いま自分たちが主体となって、市町村を跨ぐ広域な仲間と共に作り上げる「だらぼち音楽祭」を企画し、その開催に向かって奔走しているところだ。
「珠洲は集落ごとに神輿を先導する灯籠・キリコがあり、時期になると連日祭りが開催されるお祭り王国だったのですが、震災で多くのキリコも神輿も壊れてしまった。誇りあるこの祭りをどうやって続けて行くのかは課題も多いところ。だけど、そんないまだからこそ、僕らの世代による新しい〝祭り〟を作りたい思ったんです」。音楽の力で生み出したいと思ったのは、能登に人を呼ぶ新しい引力だった。すでに震災時にライブに来てくれたアーティストを中心に25組がブッキングされ、伝統の彌栄太鼓や能登の発酵食などの文化も混ざり合うこの新たな祭りは、多くの人が能登を「目的地」と足を運ぶ、その理由になることを目指している。「祭りの良さってやっぱり非日常だと思うんです」。いまも昔も、人はその非日常で解放されて、明日を生きる英気を養ってきた。ポスターの背景にある荒い粒子の赤と黒のゆらめきは焚かれる炎みたいで、それはこれまでの支援を糧に今度は自分たちで復興の狼煙をあげる合図にも見えたのだった。
【あみだ湯】彼らが銭湯であたためるもの。
男湯から海が見える〈あみだ湯〉は、思っていたよりもずっと大きな銭湯だった。「ちょっといま火を焚べてるんでこっちどうぞ」。半袖を着て長い髪をかきあげながら現れた北澤さんは、始めた先代の〝じいちゃん〟からここを引き継ぎ、この風呂を沸かし続けている人でもある。無数の配管が並ぶ大きなボイラー室を奥へ進むと炊き場があり、大きな木片をどんどん焚べていくと掻き立てられた炎の熱が辺りに一気に充満する。「だから半袖じゃないとやってられないんすよ」。
長野生まれの彼は、東京のアパレル業界で働いていたが、当時並行して携わっていた〝ITベンチャー〟が「ちょっとハネた」のを機に仕事を辞め、「次の」場所を指して全国へ旅に出た。「で、その2週間目くらいに、高校の時の同級生が金沢にいることを思い出して、会いに行ったらそいつに言われたんです。珠洲って知ってるか?お前に合いそうだぞ、って」。その時に浮かんだのが宗教史学者・中沢新一さんの著書で読んだ一節だった。「さ行で始まる土地には神様がいる」。漠然とローカルな場所がいいような気はしていたけれど、どこにするかはむしろどっちでも良くて、何かに委ねてみたい気持ちがあった。「だったら行ってみるか」と訪ねてきた珠洲に、かれこれ9年彼は暮らしている。「そんなつもりじゃなかったんだけど、若いから出来るやろ?ってフライヤーとかHP制作を頼まれるようになって、妻と2人でデザイン会社をやり出して。そのうち東京の大学出てるんだからうちの子の勉強を見てくれない?と頼まれて家庭教師を始めたんです」。
そこで生徒の両親から言われたのが、「都会に接点のない珠洲にいるだけでは出会えない大人がいる。いろんな価値観や生き方も教えてくれたうれしい」という言葉だった。不登校の子との出会いもあり、その居場所も気になっていた北澤さんは、理解ある大家さんとの出会いもあり物件を借りて楓さんらの仲間と一緒にガクソーを始めたのだった。当時移住してきていたデザイナーやアーティストが集まった「部室みたいなノリの」その空間は、学習塾であり美術やデザインを模索する場であり、新しいまなざしで物事を見るきっかけを与えてもくれるサードプレイスとなった。「人生なんて短いじゃないですか。僕らがここでわちゃわちゃやっていたことなんて長い歴史の中ではどっちでもいい話だけど、ここで生まれた子供たちに関わり出したら責任が生まれます」。そう考える北澤さんにとって、ガクソーは珠洲に居続ける1番の理由になった。
サードプレイスといえば銭湯もその1つに入るかもしれない。常連客だった北澤さんが〝じいちゃん〟と呼ぶ納谷さんのそばで、この銭湯を手伝い始めたのは、2023年の5月頃。きっかけは進んでいく認知症だった。「このバルブが何か分からない、っていうことがあって、これはマズイってなったんですよね」。半年をかけて、記憶が朧になっていく〝じいちゃん〟と共に、ボイラー室の配電を解き明かしていった。奥の配電盤にはいまも、当時の多くの書き込みが残っており、寄り添ったその日々が見えるようだ。「いまだに分からないバルブがあって、この間調べたらどこにもつながってなくて、笑。僕らはそれをじいちゃんが残したトラップだと思ってるんです」。震災の時、津波はすぐそばまで来て、地下の配管を断絶してしまった。帰ってきた楓さんなどの仲間と一緒に復旧して、再び風呂を開けたのは1月19日。2次避難を呼びかけられていた時期だったが、さまざまな理由で残った人や解体業者の人がいたため、彼らはずっと〈あみだ湯〉を開け続け、この場所は汗を流すためだけではなく地域の人のコミュニケーションの場ともなった。その後、銭湯を稼働するスキルも上がり、ボイラー室の多くの謎が解けた頃、それを見計ったように、〝じいちゃん〟は旅立った。金沢の病院で、北澤さんは「ずっと一緒にいて」その最後を見届けた。
〈あみだ湯〉に限らずだが、いまの日本にある銭湯は課題も多く過渡期に来ている。経営に行き詰まりクローズする湯も多い中、続けていく道を模索した北澤さんはここを株式会社でもなくNPOでもなく、働く人がお金や意見を出し合って運営するワーカーズコープにした。「常連さんが入る余地を残したかったんです。この先は働くスタッフと共に時々の課題に向き合って、もしやりたいという若い子が出てきたら、その子とも一緒に考えていきたいですね」。それから表に回ると、〈あみだ湯〉に向かって右手には多くの廃材が積み上げられている。
「これ、震災があったからじゃないですよ。元々〝じいちゃん〟の頃からこの風呂は廃材で沸かしていたんです」。目線を上げた先にはすぐ海が見えて、雲間から顔を出した太陽に照らされた海面は、おだやかにキラキラと光っている。「震災は確かに大きかったけれど、だからって僕らが考えていることもやっていることもそんなに変わらないです。地震が来る前もいまも珠洲はいいところだし、ここで暮らしたい気持ちも変わんないですね」。移住前と比べると「収入は1/3になったけど、体重は20キロ増えたんです」と屈託なく笑う声が、珠洲の空に気持ちよく響いていた。
帰路は輪島へとつながる海岸通りの道を走る。裂け崩れた山肌や道路の修復のために、作業車や従事する人の姿は絶えることなく、海岸沿いには、隆起した海底が延々とその姿を見せていた。岩盤は層になっており、これまでもこの海岸沿いの土地はヒトの歴史では測れない時の流れの中で、上がったり沈んだりを繰り返しながら形成されてきたのだろう。珠洲に初めて人が住み着いたのがいつかは知らないけれど、この景色や風土に惹かれ、暮らし続けた人がこの場所の文化を作ってきた。これからも、何度地震が来ても津波が来ても、この土地に暮らす人はきっといなくならない。ここで暮らすそれぞれの理由を濾してみれば、残るのはたぶんこの場所が「好き」というシンプルな気持ちなのかもしれない。車の窓から小さな波が寄せて返すおだやかな海を見ながら、そんなことを考えていた。






















